2013年11月12日火曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(3)

お粗末のはじまりは、諸将を招いて宴会をすることです。今日一日心行くまで飲んで、
それから酒を断ってくれ、というのです。
 
しかし禁酒の命じられたのは張飛だけの話で他の人には関係ないはずです。挙句の果て
は、自分で大酒を飲み、曹豹(ソウホウ)という男に酒は飲めないといっているのに、
俺の酒が飲めないのかと無理強いします。曹豹が婿の呂布の顔に免じて勘弁してくれ、
というとますます怒って鞭で五十も敲かせます。
 
 すっかり怒った曹豹が帰るや否や呂布に手紙を書き、張飛の無礼を訴え、いまなら張飛
は酔いつぶれているし、来て徐州を奪えと勧めます。その結果、呂布が小沛から来襲し、
徐州を奪い取り、劉備の家族も呂布の保護下となります。張飛は逃げます。
 
 そして第十四回の最後の部分では次のようになっています。

却說張飛引數十騎、直到盱眙來見玄德、具說曹豹與呂布裏應外合、夜襲徐州。
“さて、張飛は数十騎をひきいて盱眙(クイ)に至り、玄徳に見(まみ)え曹豹が呂布に内応して徐州に夜襲をかけてきた始末を詳しく語った。” 

これも自分の失敗を糊塗した言いぐさで、やったことはお話になりません。ようするに相当程度が悪い人間に描かれています。こんなことをやって腕っぷしがつよいだけでは大将の役目が勤まろうはずがありません。 

 正史ではこんな話にはなっていません。そもそも張飛伝にはここ事件に関して何も書いてありません。 
蜀書 先主伝 第二では興味深い経緯が書かれています。即ち陶謙から徐州を譲られ、これを支配するようになった直後 
袁術來攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。……先主與術、相持經月、呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反、閒迎布。布、虜先主妻子、」
となります。
井波さんの訳によれば 
“袁術が来襲し先主を攻撃した。先主は盱眙(クイ)、淮陰(ワイイン)で(袁術の攻撃を)阻んだ。……先主と袁術が睨みあったまま一か月が経過したとき、呂布がその隙につけこんで下邳を襲撃した。下邳の守将である曹豹(ソウホウ)は寝返って、密かにに呂布を迎え入れた。呂布は先主の妻子を捕虜にし、
となります。張飛の名前は出てきません。

しかし裴松之註の本では「英雄記」が引用されています。三国志演義の話はここから膨らまされているのだと思います。
これによれば 
「備留張飛守下邳、引兵與袁術戰於淮陰石亭、更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳、張飛欲殺之。豹衆堅營自守、使人招呂布。布取下邳、張飛敗走。備聞之、引兵還、比至下邳、兵潰。收散卒東取廣陵、與袁術戰、又敗。」
“劉備は張飛を後に残して下邳を守らせ、兵をひきつれ袁術と淮陰の石亭で戦ったが、互いに勝ったり負けたりしていた。陶謙の元将軍曹豹が下邳におり、張飛は彼を殺そうとした。曹豹の軍勢は陣営を堅めて首尾しつつ、人をやって呂布を招き寄せた。呂布は下邳を奪取し、張飛は敗走した。”

これだけだとなぜ張飛が曹豹を殺そうとしたのかわかりません。とにかく何か争いが起こり、曹豹が呂布を引き入れたことにはなっています。しかし、張飛に何か落ち度があったにせよ三国志演義の様な愚にもつかぬ話ではないようです。 

なお呂布伝(魏書 呂布臧洪伝 第七)の註にも「英雄記」の記述があります。こちらに
よれば呂布は下邳に西四十里に到達していたとき、劉備の中郎将である許耽(キョタン)
が司馬の章誑(ショウキョウ)を呂布につかわして、「張益徳(張飛)と下邳の相曹豹
がけんかをして、益徳が曹豹を殺しました。城中は大混乱に陥り、たがいに疑心暗鬼に
なっております」と連絡して呂布を引き入れたことになっています。


 また、魏書 呂布臧洪伝 第七では備東擊術、布襲取下邳。備還歸布」と書かれているだけです。“劉備が東へ向かって袁術を攻撃しているまに、呂布は下邳を襲撃して奪い取った。劉備は帰還すると呂布のもとに身をゆだねた。”となります。呂布はまったく空き巣狙いのようですが、劉備も意気地がないです。






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